若手保育士の職場ガチャ攻略ブログ

今年2年目になる20代男性保育士、大学では電電を学んでいた。畑違いから来たからこそ、男性だからこそ思う、あれこれを呟きます。

怖いと思った人に対する防波堤その①味方を作れ

どの職場にもきっと、1人くらい怖いなって人はいると思う。そういう人は大抵、まくしたてるように言ってくる。そういう人に対してはどのように対処すべきか、と考えた。相手にしないとか、無視するとか、情報をシャットアウトする方法、これができるなら苦労はしないのだ。私はあくまでも少しばかり、気を遣いやすい、そんな人のためのことを考えたい。身も蓋もないことかもしれないが、多くの優しい人が、苦手とすること、それは人間関係の順位付けだ。それの濃淡によって味方が作れるのだ。

 多くの人が見逃しがちなこととして、味方を周囲に作っておくこと、これこそが社会で勝ち抜くための基礎である、これは目に見えない極めて重要な資本であり、維持することはそう簡単ではないかもしれない。しかし、それゆえに威力を発揮するのだ。仲間を作るための方法として、自分の行動や習慣、実際の経験を話せるような状況、言うなれば土産話が大事になる。やや社会の人と逸脱していても良い。実は、みな非日常を裏で期待しているから。

注意してほしいのは、それらの土産話、これはネットの情報とか、2次的な情報ではダメであり、限りなく自分が肌で感じたもの、ということだ。1次的な情報であっても、評論的な視点もあまり好まれない、周囲の人がその話題について十分知識があるという共通認識がない中でそういった、やや高度な評論をしては、キザなやつと思われるだけである。そういった自分の物理的な行動と時間消費を伴う行為は、実は贅沢なのだ。贅沢だというのは、つまりどんな結果が得られるかわからないもの、ことに対してお金と自分の時間を費やすから。これは現代人が今最も苦手にすることの一つである。

実はお金をいくら費やすかは、得られる経験や話題性に、さほど関与しないことを覚えておいてほしい、話題を作りにいくために海外旅行に行かなければならない、わけではないのだ。むしろ自分らしくあること、本当にこれが好きでとか、こういうのに面白さを感じるとか、そういった類で十分である。もちろん、異性と楽しく話したいのなら、自分の興味の幅を広げる筋トレをしておくことは重要である。女性は、旅、恋愛、ドラマ、甘いものの話、これからの人生、この辺りはかなり盛り上がる話である。

(筆者はスキンケアにハマっているのだがメンズスキンケアの本を買って美容皮膚科医の先生の動画を見ると成分やらよりも、泡立て方、洗顔の仕方の方が重要に思える。言うなれば(保湿、乳液、UVケアの)基礎を固める方が正しい気がしたのだ。直接体に触れるものとして、話題だから買ってみようという、女性あるある方針がどうも苦手であり、話が広がりにくかったイメージがあるのであえてこの中には入れなかった。)

 

 

理念と行動原理の不一致

これは、恋愛においてよく生じる。理性ではわかっているけど、理念としてはロジカルに考えるとわかる。だけれど私にはそれとは異なる方向への慣性があるのだ。放埒としている人間の方がまだましか、いや我々は2重の過ちを犯しているのかもしれない、だとしてもその自覚を持ちながらその、拗れを穏やかに、それ自身にも愛情をもって丁寧に徐々にやり戻すことだ、これは一人にしてはならず。強烈な行動の改革は、臭い物に蓋をするようなものであり、中には入っているのに、それは無いのだと言い張るようなことである。確かに環境をガラッと変えることは効果的ではある、しかしその中に一滴も負の要素を入れないでおく、そんな習慣は過ちである、と私は考える。そもそも聖人君子のような人間になろうというのが、ものごとを安易にレッテル貼りしたがる本能で、自分の弱さを隠すという精神の防衛機制であり、100/0思考の罠である。それでは本当のリアリティの中では浮いてしまうことになる、葉隠的にいうならば何かの技術を芸能を特化するよりも大切なことがあるという、あれである。

うまくいっていない時の自分の精神の未熟さ

自分の写真、保育園には職員の名前と笑っている写真が載っているものだ。ふと思い出す、自分が保育園で何かミスをした時の心情。こいつ何このくそ笑っていやがる、と自分の晴れやかな写真に対し恥ずかしさを感じ、罵倒したくなるのだ。そういえば、自分はそういったものに対して擬人化的な妄想にふけることがある、例えば何かこれから起きるストレス、自分が発表しなければならないとき懇談会などの当日に目の前にある明るい男性のイラストをみて、自分がこのイラストだったら楽だったろうに、と考えたりする。いやでも、イラストだと色々楽しいこともできないだろう、と考え直すのだが想起してしまうのだ。こういう精神状態に私は昔からなってきた。自分が暗い心情なのに周りのあれこれが明るい心情を出している、そしてそれらが切り取られた瞬間や誇張したものであると、なおさら羨ましさ、怒り、対象が自分であれば恥が生じる。理性を覆い被さるイメージだ。これは100/0で考えたくなる感覚からきているのだろうか。交友関係も、相手の立場も、自分の評価も、実はスペクトラムであり、積み重ねがそこにはある。積み重ねを自覚していない中では不安定な心情か、一見してさっぱりした心情が、のどちらかになってしまうため、自分の思い適切にを伝えるには不適当なのだろう。自分がミスをした時に、それに対してどこまで真剣に向き合うべきであるか、このべき、も人によって多種多様であるだろう。また、蓋もない議論はやめておこう。最近の若者は〜という意見を聞くが、それはごもっともかもしれない、ただしそれは相手の性格が捻じ曲がっているとは限らない。私は本人の世代によって、性別によって、また職場の環境によって、失敗をした時に何に対してウェイトを置いたら良いのかが異なると思っている。感情なのか、行動なのか、特に今の若者はあらゆる制限の中で学生時代を過ごす、ある意味で温室育ちともいえる。どちらかというと知性化的な防衛機制を働かせる者が多いと思う。これは体罰やそれに準ずる行為を減らしていったことには良い側面と悪い側面があり、悪い側面だろう。つまり社会の反応というリアリティを学ぶ機会も同時に失われたということだ、退職代行なるものが若者の中であるのも頷けるわけだ。思いを伝えることも難しいのだということだろう。それは心と感情、理性と行動のバランスが悪く不器用な、誰しも通る道なのだ。それを今の若者は社会に出てからしか学ぶ機会が少ないのだと私は思う。

 

不安を感じる度合いと仕事におけるコミュニケーション

不安とはある種、行動のためのセンサーである。その強度が周囲と違う時、またそれがいわば自分を卑下する心や、自己犠牲と(無意識的であれ)結びついている時に、やりとりの齟齬が生まれる。考えて行動して、と人は言うがその考えるためのリソースがそもそも無ければ動きようがない、そのため不安を打ち消すために動くことも多いだろう。考えて行動するとはいえ、多くのベテランは考えるのではなく、的を射た不安、が自動的に精神に湧き上がっているだけである。若手が不安を無理やり作り出したところでベテランには敵わず、むしろ混乱が増すばかりである。仕事の本質はなんなのか、大枠を捉えよう、無理をせずに、決して焦らず。

安心感と理解力〜若者がしなやかに生きるための処方箋〜

私は某市で公立の保育士をしている。保育という仕事をしていると「まずは子どもの受け止めて〜」(その後に大人の思いも子どもに伝える)という言葉をよく耳にする。私はそれをより一般化して、安心感がない中では(相手との関係性が育っていない中で心が攪拌されてるような精神の不安定な状況)理解(=納得)することは困難である、(大人が伝えたいこと、机にのらないよ、ひとを叩いてはだめ、など)と思った。

これは最近の自分の実体験から引き出された。

理解や納得するためには体をリラックスさせ、体全体を耳のするような心を開くような精神が必要なのだ。しかも受け身によって成せるものではない。それは言語による相互作用でもある。心を開いた中でイメージを元にインプット、それを自分の言葉でアウトプットしてさらにそれを相手に訂正してもらいインプットするこれができることがお互いの尊厳を保った関わりである。安心感を理解と結びつけることは、少し意外に思うかもしれない。少し私の最近の経験を聞いてほしい私は人から助言をもらうときにはメモを取ったり、相手の目を見て聞くように昔からしてきた。昔から自分には理解力がないと卑屈になっていたこともあり、その反動で少なくとも相手に悪い印象を与えないようにと、ある意味で表面的な形で対処していたと認める。この態度には安心感がベースにないとわかるだろう。ある日、保育士歴の長い先生に保育についてアドバイスを受けた。それは自分の保育の仕方であり、自分としても猛省していたものである。その先生からは、メモを取るのではなく聞いてほしい、と言われたのが印象に残っている。メモを取ることを完全に否定するわけではない、つまりお迎え時間とか情報にゆらぎのないもの情報的なもの、はメモも大事である。一方で、保育の中での職員の振る舞いとは、一種の価値観や思想とも言える。こういうことはメモを取るよりもその場で、自分の血肉となるように対話することが大事になる。実際、相手もそれを求めているのである。

(これは保育に限らず仕事においては、答えのない振る舞い、臨機応変な人との関わりもあるだろう。)さて、(相手の話していることの)理解には、安心感が必要だと私は言った。メモを取ろうとする自分、その根底には不安や卑屈な姿勢がある。自分には能力がないから、や相手によく思われようといった、浅ましい考え方などだ。そういった精神状態で、相手の言わんとしていることは、全て受け身に流れやすい。

そしてここが大事であるが、イメージではなく言語情報が優位に残ることになる。言語情報としての理解、大いにありだと思うかもしれないが私は間違っていると思う。イメージの方が言語情報より遥かに多くのメリットがある。イメージとはなんなのか、それは気持ちがリラックスしていないと行うことが難しい。それだけあって自分の行動や納得と結びつきやすく身体化して行きやすい、手順を言語として暗記することとは大きく異なる。また、2段階的な理解の手順と、先に述べた。インプットしたことをその場で訂正をかけることでより精度の高いものにする、ということだ、ここにも対話の大きなメリットがある。メモをとる行為はキツく言うならば、ある意味でその瞬間に理解すること、納得することを放棄している、ということでもある。相手に気に入られることを重んじ、自分の力を信じていない、、メモを取ることで満足してしまい、自分でこういうことですか?と質問し訂正することを避けている。またもう一つ、見逃してはならないこととして、話し合いという場は、一期一会であり、その場限りであるということだ。つまり、その熱気の中で質問しないと後に聞いても深い納得にはつながりにくいだろう。鉄は熱いうちに叩けである。最初に安心感が前提といったが、これはどういうことか、対話には自分が理解できていないことを曝け出す可能性を秘めている。その中でも相手に怯まずに自分が理解するために現在地点をその場で話せるか、ということだ。安心感といったがこれは、相手との信頼関係による安心感でなくても良い、むしろ実際はそうでない方が多いだろう。対話とは、上下関係を無意識下で自分の精神に宿すことなく相手と議論することである。これは意外と難しい。仕事中にはしばしば、相手やその他大勢の職員にとっては当たり前だと思われることが、自分は知らない、ということにぶつかる。そう行った時に精神の逃げ場をどう確保するのか、自分はわからなくて当たり前だと、割り切れるだろうか、相手からはそれくらいわかって当然だよね、という圧も加わる。理性的に、捉えるならば、ケースを経験していない、見たり、聞いたりという接触回数が圧倒的に少ないのが若手であるから、むしろわかって当然だよねと怒る人間の方が認知が歪んでいるという可能性はあるだろう。終わった話の後にも、とやかくいう人間にはなりたくないものだ。さて若手の多くは、仕事以外で仕事の同僚と交流することを避けたがる。これは相手も人間であり、発達の途中である、愚かな部分が少なからずある、という点を見落とす要因になる。それが、メタ認知を、今回の意味での対話を、より一層難しくするのだ。自分と他者をできるできないという2極に据えてはならない。

おまけ

社会にでて若者の感じるあれこれを精神科医の先生が丁度色々とお話ししてみました。https://youtu.be/K9cHZnC5_2k?si=DiYD6rZVZh4nJPdS