若手保育士の職場ガチャ攻略ブログ

今年2年目になる20代男性保育士、大学では電電を学んでいた。畑違いから来たからこそ、男性だからこそ思う、あれこれを呟きます。

安心感と理解力〜若者がしなやかに生きるための処方箋〜

私は某市で公立の保育士をしている。保育という仕事をしていると「まずは子どもの受け止めて〜」(その後に大人の思いも子どもに伝える)という言葉をよく耳にする。私はそれをより一般化して、安心感がない中では(相手との関係性が育っていない中で心が攪拌されてるような精神の不安定な状況)理解(=納得)することは困難である、(大人が伝えたいこと、机にのらないよ、ひとを叩いてはだめ、など)と思った。

これは最近の自分の実体験から引き出された。

理解や納得するためには体をリラックスさせ、体全体を耳のするような心を開くような精神が必要なのだ。しかも受け身によって成せるものではない。それは言語による相互作用でもある。心を開いた中でイメージを元にインプット、それを自分の言葉でアウトプットしてさらにそれを相手に訂正してもらいインプットするこれができることがお互いの尊厳を保った関わりである。安心感を理解と結びつけることは、少し意外に思うかもしれない。少し私の最近の経験を聞いてほしい私は人から助言をもらうときにはメモを取ったり、相手の目を見て聞くように昔からしてきた。昔から自分には理解力がないと卑屈になっていたこともあり、その反動で少なくとも相手に悪い印象を与えないようにと、ある意味で表面的な形で対処していたと認める。この態度には安心感がベースにないとわかるだろう。ある日、保育士歴の長い先生に保育についてアドバイスを受けた。それは自分の保育の仕方であり、自分としても猛省していたものである。その先生からは、メモを取るのではなく聞いてほしい、と言われたのが印象に残っている。メモを取ることを完全に否定するわけではない、つまりお迎え時間とか情報にゆらぎのないもの情報的なもの、はメモも大事である。一方で、保育の中での職員の振る舞いとは、一種の価値観や思想とも言える。こういうことはメモを取るよりもその場で、自分の血肉となるように対話することが大事になる。実際、相手もそれを求めているのである。

(これは保育に限らず仕事においては、答えのない振る舞い、臨機応変な人との関わりもあるだろう。)さて、(相手の話していることの)理解には、安心感が必要だと私は言った。メモを取ろうとする自分、その根底には不安や卑屈な姿勢がある。自分には能力がないから、や相手によく思われようといった、浅ましい考え方などだ。そういった精神状態で、相手の言わんとしていることは、全て受け身に流れやすい。

そしてここが大事であるが、イメージではなく言語情報が優位に残ることになる。言語情報としての理解、大いにありだと思うかもしれないが私は間違っていると思う。イメージの方が言語情報より遥かに多くのメリットがある。イメージとはなんなのか、それは気持ちがリラックスしていないと行うことが難しい。それだけあって自分の行動や納得と結びつきやすく身体化して行きやすい、手順を言語として暗記することとは大きく異なる。また、2段階的な理解の手順と、先に述べた。インプットしたことをその場で訂正をかけることでより精度の高いものにする、ということだ、ここにも対話の大きなメリットがある。メモをとる行為はキツく言うならば、ある意味でその瞬間に理解すること、納得することを放棄している、ということでもある。相手に気に入られることを重んじ、自分の力を信じていない、、メモを取ることで満足してしまい、自分でこういうことですか?と質問し訂正することを避けている。またもう一つ、見逃してはならないこととして、話し合いという場は、一期一会であり、その場限りであるということだ。つまり、その熱気の中で質問しないと後に聞いても深い納得にはつながりにくいだろう。鉄は熱いうちに叩けである。最初に安心感が前提といったが、これはどういうことか、対話には自分が理解できていないことを曝け出す可能性を秘めている。その中でも相手に怯まずに自分が理解するために現在地点をその場で話せるか、ということだ。安心感といったがこれは、相手との信頼関係による安心感でなくても良い、むしろ実際はそうでない方が多いだろう。対話とは、上下関係を無意識下で自分の精神に宿すことなく相手と議論することである。これは意外と難しい。仕事中にはしばしば、相手やその他大勢の職員にとっては当たり前だと思われることが、自分は知らない、ということにぶつかる。そう行った時に精神の逃げ場をどう確保するのか、自分はわからなくて当たり前だと、割り切れるだろうか、相手からはそれくらいわかって当然だよね、という圧も加わる。理性的に、捉えるならば、ケースを経験していない、見たり、聞いたりという接触回数が圧倒的に少ないのが若手であるから、むしろわかって当然だよねと怒る人間の方が認知が歪んでいるという可能性はあるだろう。終わった話の後にも、とやかくいう人間にはなりたくないものだ。さて若手の多くは、仕事以外で仕事の同僚と交流することを避けたがる。これは相手も人間であり、発達の途中である、愚かな部分が少なからずある、という点を見落とす要因になる。それが、メタ認知を、今回の意味での対話を、より一層難しくするのだ。自分と他者をできるできないという2極に据えてはならない。

おまけ

社会にでて若者の感じるあれこれを精神科医の先生が丁度色々とお話ししてみました。https://youtu.be/K9cHZnC5_2k?si=DiYD6rZVZh4nJPdS